悲しみは自分の中にある | 猫のおなか

悲しみは自分の中にある

昨日、大好きな方が亡くなった、と書いたばかりだけど、こういうことは続くもののようで…。

旦那が、会社に行く為に居間に降りていってからしばらくして(私は朝までサッカーを観ていて、まだお布団の中)、階段を駆け上がってきた。

「長新太さんが亡くなった……」

私は言葉もない。

このニュースは昨日の夕方にはもう各ニュースサイトで配信されていたらしい。私たちは、寄り道をして遅く帰ってきたので、知らなかっただけだ。

大好きなあの方……に遅れること2週間。お二人は友人同士だった。
(多分長さんもあの方の亡くなったことはご存じなかったはずだから、きっと今頃、雲の上で二人会って、ビックリしているのじゃないだろうか。)

今頃、K嬢やD氏も悲しんでいるだろう。ご本人を直接知っているだけに、辛いことだ。

ひとりの人が死ぬ、というのは、一体どういうことなのだろう。
存在がもうないのに、存在が影になって残っている。主に、生きている側の心の中に。
死んでしまった人はもう悲しむことはないし、死んでしまうことに対しての苦痛も、もはやないのに、何故私たちは悲しいのだろう。

もう暑い日差しに汗を流して文句をいうこともないというのは、いいことなのだ。もうおなかも空かないというのは、いいことなのだ。生きるためにしなきゃいけない、いろいろな面倒をしなくていいのは、いいことなのだ。多分、そうなのだけど。

でも、涙を流すのは、生きてるものの特権だから。
いましばらくだけは、許してください。